Aeolianharp Piano Studio
Aeolianharp Piano Studio News Letter Vol. 9 ( May 1998)
素敵な出来事
ピアノのこともっと知りたい。
作曲家の気になるお話
素適な出来事
今年の8月27日(木)、NHK交響楽団がアクトシティ浜松にやって来ます。マティアス・フスマン指揮で、プログラムはロッシーニの歌劇《どろぼうかささぎ》序曲、ラフマニノフの《ピアノ協奏曲第2番》ハ短調Op.
18、ブラームスの《交響曲第2番》ニ長調Op. 73ですが、私は個人的に2曲目のピアノ協奏曲がとくに楽しみです。なぜなら、ピアニストの小山実稚恵さんが出演されるからです。今日本でもっとも実力のある若手ピアニストとして、日本国内はもちろんのこと、海外でも名立たる指揮者たちと共演し、ものすごい数のコンサートをこなしていらっしゃいます。私も何度かコンサートに足を運びましたが、正確なタッチから生まれる切れのある音、一瞬にして聴衆をひきこむ高い芸術性に、いつも刺激を受けています。
ピアニストとして超売れっ子の小山さんですから、プライベートの時間を作るのはかなり大変なことだと思いますが、実に個性的な趣味を持っておられることを、新聞の記事で知りました。通信教育で将棋を習ったり、今はビデオで手品の研究をしていらっしゃるそうです。何でも、手品のビデオでは、出演されているマジシャンの華麗なテクニックに見入ってしまい、なかなか習得できないそうですが。あとほかにもいろいろな趣味をお持ちで、よくそんな時間があるなーと思ってしまいますが、違うんですよね。彼女は有意義な時間の使い方を知っていて、平常心でいつも過ごすリズムを持っているんだと思います。だから、記事にも書いてありましたが、コンサートの直前に別のコンサートで演奏する曲を練習してしまえるんですね。
何かとバランスをくずしやすい世紀末の今日この頃ですので、平常心でいられることや、良い気分転換を見つけられることがとても重要ではないでしょうか。
ピアノのこともっと知りたい。
ピアノの先祖と言われる楽器 Part.2 「筝(そう)」
「筝」と言われてもピンとこない方も多いと思いますが、いわゆる、一般に「琴(こと)」と呼ばれる楽器のことをさします。しかし、琴(こと)とはもともと、古代における弦楽器の総称です。その中には、琴(きん)と呼ばれる中国の弦楽器が別にあり、筝とは根本的に別種の楽器です。その違いは、筝には動かすことが可能なフレッド(柱=じ)があり、これを調整して音階が作ることができるが、琴はこの柱をもちません。つまり、筝は独自の特徴を持つ楽器として、琴という名称とは区別して認識されるべきです。
筝は奈良時代に現在の中国から輸入された13弦の撥弦楽器です。中国の筝は、後漢時代に今日の形に近いものができ、弦の数は12弦と13弦のものがありました。現在は12弦はなくなりましたが、かわりに16弦筝があります。
唐の時代に宮廷で用いられたのが13弦筝で、これが奈良時代に日本に渡来し、これが日本の雅楽で用いられる<楽筝>となりました。日本ではこのほかに、筑紫流で用いられる<筑筝>、八橋流、生田流、山田流で用いる<俗筝>、大正以降に工夫考案された新型の筝(短筝や17弦筝)を合わせて4種あります。楽筝、筑筝、俗筝の3種は形も大きさもほとんど同じで、長さは約182p、幅は約24p、弦は13本あります。ただし、俗筝の中で脚や音孔など、細かい部分での違いは見られます。また、演奏のために右手の親指、人差し指、中指にはめる筝爪(爪=つめ)の形は、楽筝、筑筝、各俗筝によって違います。また、楽筝はほかの筝にくらべて弦が太く、渋いひびきを特徴とします。
演奏する時には、まず曲に合わせて柱を移動して調弦し、そして、音高を決めるために左手の指で弦の左の方を押さえながら、爪をはめた右手の親指、中指、人さし指で弦をはじいて演奏します。
筝はその構造上、ヨーロッパのチター(ツィター)に似ているため、楽器の分類の上ではロング・チターと呼ばれています。また、チター同様、チェンバロやピアノの先祖と言われるヨーロッパ生まれのサルトリーやモノコードに演奏法や構造が似ている点から、ピアノとのつながりを感じさせます。
作曲家の気になるお話
モーツァルトWolfgangAmadeusMozart
(1756〜1791)
古典派の完成者としてハイドンとともにならび称され、かのベートーヴェンへの道を開いたモーツァルト。わずか35年の生涯ではあったが、その総作品数は膨大で、交響曲を含めて管弦楽曲は328曲、協奏曲55曲、室内楽曲124曲、教会ソナタ17曲、ピアノ曲179曲、宗教音楽82曲、オペラ20曲など、その他すべてのジャンルを含めて900曲をこえます。まさに<神童>の名の通り、幼い時から異常とも言うべき才能を発揮し、この神童ぶりが音楽史上でもとくに際立って名高いのは、誰もが認めることでしょう。
神童モーツァルトは、1756年1月27日オーストリアのザルツブルクに生まれました。父レオポルトは宮廷音楽家で、作曲家、理論家として知られていました。レオポルトは今日的に言う熱心な「教育パパ」で、この父によってモーツァルトは3才で楽才を発見され、4才でピアノ(クラヴィーア)やヴァイオリンの手ほどきを本格的に受け、5才にして小品を作曲するようになります。モーツァルトには5才年上の姉マリア・アンナ(愛称ナンネル)がおり、彼女も優れた才能の持ち主で、のちにピアニストとして活躍するが、レオポルトは2人のずばぬけた才能を持った子供を世に知らしめるべく、モーツァルトが6才の時から一家で大旅行を始めます。ミュンヘン、マンハイムを中心としたドイツ各地、ベルギー、フランス、英国、オランダ、スイス、あるいはウィーン、さらにイタリア各地などをまわり、多くの音楽家から多大な影響を受け、また宮廷や貴族の館での演奏会や公開演奏会を開き、各地でセンセーションを巻き起こしていました。この間にも作曲の修行は続けられ、交響曲やピアノ協奏曲、さらにミサ曲のような大規模な教会音楽も書いていました。
1773年秋、3度目のウィーン旅行の後、モーツァルトはザルツブルクの宮廷音楽家、すなわちコンサートマスター、オルガニスト、作曲家の仕事を本格的に始められるようになり、今まで身につけた作曲上の技術を発揮できる時期が来ていました。しかし、ヨーロッパ各地の都会や宮廷、貴族社会を直接知っていた彼には、ザルツブルクの町や音楽をとりまく環境が物足りなく不満で、この地のコロレード大司教ともまったく馬が合わなかったようです。1777年秋から79年はじめにかけての、マンハイムからパリ旅行も、大司教と衝突して職をやめた上で、母マリア・アンナつきそいのもと行なわれ、新天地での就職口さがしが目的でした。しかしこれは成功せず、むなしくザルツブルクにもどるが、この旅行での音楽的経験や大作曲家フランツ・フリードリーン・ウェーバーの娘アロイージアへの悲恋、パリでの母の死など、数々の人間的体験も作曲の上でプラスになったと考えられます。最後のザルツブルク時代となる1779年春から80年秋、作曲家、オルガニストとして活躍する中で、ミサ曲《戴冠ミサ》
K. 317や、《交響曲第32番》 K. 318、《交響曲第33番》 K. 319、《セレナードニ長調》
K. 320などの傑作が生まれたが、大司教への不満は高まる一方でした。
1780年11月、ミュンヘン宮廷から作曲をたのまれ、オペラ・セリア《クレタ王のイドメネオ》
K. 366を作曲し成功をおさめました。翌年ウィーン滞在中のコロレード大司教に呼ばれ、その地におもむくが大司教と完全に訣別し、この時モーツァルトのウィーン時代が始まりました。ウィーン時代は亡くなるまでの丸10年で、ウィーンに移った翌年にはかつて悲恋に終わったアロイージアの妹コンスタンツェ・ウェーバーと結婚しました。彼女は軽薄な浮気娘だった上、モーツァルト同様かなりの浪費家だったようで経済的にも恵まれなかったが、モーツァルトは妻を愛し幸せだったようです。結婚10年の間に6児をもうけたが病弱で、子供のうち2人しか育ちませんでした。父レオポルトは、ウィーン定住もコンスタンツェとの結婚にも大反対だったが、モーツァルトは父からの自立を表明するかのように、自らの意志をつらぬきました。ウィーンでは宮廷音楽家のような安定したポストはなかったが、モーツァルトはウィーンを<ピアノ(クラヴィーア)の国>ととらえ、ピアノ教師として定収入をかせぎ、ピアノ曲(とりわけ協奏曲)を中心とした作曲活動を繰り広げました。また、ピアノ奏者としての演奏会活動やオペラなどの作曲で、おどろくべき収入をあげていたようです。この頃からさらに作曲
のはばを広げ、実に様々なジャンルの作品が作られましたが、特にオペラ《後宮からの誘惑》
K. 384 (1782) を手始めに、《フィガロの結婚》 K. 492(1786)、《ドン・ジョパンニ》
K. 527 (1787)、《コシ・ファン・トゥッテ》 K. 588 (1790)、1791年には《魔笛》
K. 620 やオペラ・セリア《ティート帝の慈悲》 K. 621などの、オペラの傑作を生み出しました。またこの頃、ヨーゼフ・ハイドンとの親交が始まり、深い友情の中、お互いに影響し合いました。
1785年、モーツァルトはハイドンに6曲の弦楽四重奏曲をささげています。当時のウィーンは、ヨーロッパでも名だたる音楽都市で、モーツァルトはフリーの音楽家として皇帝ヨーゼフ2世にも好遇を得ていました。しかし、宮廷向きの音楽家ではなかったため、長く宮廷音楽家に任命されなかったが、ついに1787年末にこれに任命され、称号と年俸800グルデンを与えられたが、これはモーツァルトの才能に値する額ではありませんでした。またその任務は、毎年初めの宮廷舞踏会の舞曲を作曲する程度のものだったようです。
またウィーン時代の後半は、モーツァルトに謎めいた不透明な行動がうかがえます。1784年半ばに、当時多くの知識人が参加していた<フリーメイスン結社>に加わり、この結社の活動と結び付く作品を残していて、《フリーメイスンのための葬送音楽》
K. 477(1785)やオペラ《魔笛》がそうです。「愛と友情と平等」が信条のこの結社に加わっていたことは、社会の習俗にとらわれないモーツァルトの生き方をうかがわせます。しかし《フィガロの結婚》以後、一家の経済は危険な状態になっていて、友人・知人に借金を重ね、その額はかなりのものでした。収入に不足はなかったので、モーツァルトのギャンブル好きとコンスタンツェの浪費がまねいたものと考えられます。このような窮地から脱出するためにベルリンの宮廷に職を求めたが失敗し、ウィーンに戻り何とか収入を得ていた時期があったようです。
1791年《魔笛》完成の頃、モーツァルトのもとに見知らぬ男が現れて、《レクイエム(死者のためのミサ曲)》
K. 626の作曲を依頼しています。すでにこの時モーツァルトの病気は始まっていたが、一通の署名なしの手紙と謝礼を置いて帰ったこの見知らぬ使者(灰色のコートの男)を、死の使者と思うようになり、このレクイエムを「自分のためのレクイエム」として書き続けました。コンスタンツェはこの時バーテンで療養中だったが、夫の病気の進行を知って急いでウィーンに戻ったが、12月4日の深夜モーツァルトは意識不明になり、翌5日の午前1時少し前、音楽の最大の天才は天に召されました。彼は亡くなる4時間前まで、未完のレクイエムを書き続けていたそうです。残されたコンスタンツェは、夫の死と借金の山に直面し半狂乱になったと伝えられ、あまりに貧しい状態だったため、モーツァルトの遺体は共同墓地に埋められ、今に至るまで遺体が眠る正確な場所は判明していません。
モーツァルトは、落ち着きがなく神経質で、短気で、よく動き回り、かなりの変わり者だったようです。身長は150cm足らずで、決して美男子と呼べなかったが、恋多き人物でした。わずか35年の生涯の中、比類ない才能を発揮し続け多くの傑作を残したが、また、謎につつまれた晩年の様子も常に注目されています。それは、未完で残された《レクイエム》の補筆完成をめぐる弟子や知人の関与についてや、種々の病死説、死の直後から語られ始めた<モーツァルトの毒殺説>などです。1980年代には劇作「アマデウス」が登場し、またそれが映画化され、モーツァルトの生涯や人間像、芸術家像に大きな影響と波紋をなげかけ、フィクションやファンタジーの対象になっている点は否定できません。しかし、様々な研究でモーツァルトの多様な面が明らかになるにつれ、かの天才がいかに努力の人であったか、そして人間、人生、死、そして芸術について深い考えを持つ人物であったかが明らかになり、その作品のみならず、常に我々の心をとらえてはなさない、魅力的な対象であり続けるのです。