Aeolianharp Piano Studio





Aeolianharp Piano Studio News Letter Vol. 10 (June 1998)


素敵な出来事

ピアノのこともっと知りたい。

作曲家の気になるお話


素適な出来事


私は、管楽器の中ではオーボエの音色がとくに好きです。この度のの定期演奏会で私がソリストをつとめたモーツァルトの《ピアノコンチェルト第6番》でもオーボエが用いられており、その豊かで民族的な音色と一緒に演奏していると、とても心がなごみます。オーボエは高音部を演奏する木管楽器で、長さは約70cm弱、その型から下に行くにあしたがっち太くなる円錐型をしています。その頭部にステープルと呼ばれる金属製の管を差しこみ、ステープルには2枚のリード(舌)を取り付けます。このリードを唇にはさんで空気を吹きこみ、舌でリードを開閉し、その振動によって音を奏でます。オーボエは空気の入る穴が小さいため、吹きこむ空気の必要量は木管楽器の中で一番少なく、吸った空気は少しずつ出して息をつめている状態が多いので、長い音符や楽句を演奏することが可能です。表現は人の声のようにやわらかく、豊かで切れがよく、また運動能力も多いので、スラーやスタッカートの対比もきわめて美しく演奏することができます。

オーボエ属の楽器にとって、音源となる重要な部分はもちろんリードです。リードの善し悪しで演奏の難易や音色、音質、音域にも影響が大きく、いかなる名手でもリードに左右されると言われます。リードの材料はケーン(茎)と呼ばれ、アルンド・ドナックスという植物の茎のうすい板です。この植物がリードに適したかたさになるまでには5年から8年かかり、茎の繊維がまっすぐで、固いものが良いとされています。太い茎はクラリネットやサクスフォーンなどに用い、細めのものをオーボエやファゴットなどに用います。茎は採取後に、乾燥させるために2年を必要とし、選ばれたリードはそのけずり方で演奏の善し悪しがほぼ決定されてしまいます。このけずり方の技術を身につけるためにも、最低2、3年を必要とします。

オーボエ属の楽器の歴史は古く、ギリシア時代にはすでに用いられていたとされ、大変歴史の長い楽器です。鼻にかかったような独特の美しい音色、強く吹くとひじょうに鋭い音を出す個性の強い楽器ですが、他の楽器と同じく、大変なエネルギーを必要とする楽器であることは間違いありません。でも今回の共演で、いつかチャレンジしてみたいという気持ちがますます強まり、その音色にとにかく魅了されている今日この頃です。


ピアノのこともっと知りたい。


ピアノの先祖と言われる楽器 Part. 3 「モノコード」

モノコードとは、古代ギリシャのピュタゴラスが紀元前550年頃に発明した楽器で、長い木製の共鳴器に1本の弦が張られたもので、弓を使って音を出します。また、駒(こま)が共鳴器の目盛りの上を自由に動き、これで音高を変えられます。ピュタゴラスはこの楽器で音響学的な実験ををこころみて、これを数学的に解明し、耳に心地よい音の間隔を発見したと伝えられています。古代人は楽器として広く用いたが、中世以後は調律などの音響学の実験器具として用いられるようになります。また、中世後期には弦が2本または3本に増え、音程、和音を奏でることができるようになりました。さらにモノコードを多数集めて一体とし、のちにピアノの原型となったクラヴィコードが作り出されたと伝えられています。

ピュタゴラスは、モノコードを作り出したアイデアを天文学に適応して、―すべての惑星はその運行の速度によって一定の音をもっており、それぞれの惑星の出す音によって音階が作られ、天体は音楽をもつものである。―という何とも難しい理論を作り出しました。これに基づいて、ホルストの有名な《惑星》組曲が作曲されました。


作曲家の気になるお話


ヴィヴァルディAntonioVivaldi (1678〜1741)

皆さんは、気分や雰囲気に合わせて、鑑賞する音楽を選ぶことがありますか?私は練習でたまに煮詰まってしまう時、ヴィヴァルディの《トランペット協奏曲》変ロ長調を聴きます。聴いているとモヤモヤがスカッと晴れて、とてもいい気分になります。トランペットの明るくするどい音色、まろやかな響きはとても心地よく、バロック協奏曲の完成者であるヴィヴァルディの美しく整ったメロディーに、心を真っ白にできます。

アントニオ・ヴィヴァルディは1678年3月4日、当時ヨーロッパ音楽の中心地であったイタリアのヴェネツィアに生まれました。父親のジョヴァンニ・バッティスタはサン・マルコ大聖堂の有能なヴァイオリストで、この父によってヴァイオリンと作曲の指導をうけます。15歳になると聖職者になるための教育を受けるようになり、10年後の1703年には司祭(神父または牧師)に任じられました。しかし病弱な体質だったため、司祭になるまでの間も家族と一緒に過ごしたため、父から音楽教育を受けられたし、時には父の代役としてサン・マルコ教会での演奏会に加わる機会にも恵まれました。司祭に任じられて間もなく、彼の持病であったと思われる喘息(ぜんそく)の悪化によりミサを唱えなくなり、祭壇をはなれることになります。このことにより、彼はいっそう音楽活動に専念していきます。

祭壇をはなれたヴィヴァルディは、1703年からピエタ音楽院のヴァイオリン教師になりました。この学校は私生児や身寄りのない少女、親に養育能力がない少女たちが収容される施設で、彼女たちは国費で教育を受け、音楽教育は非常に高度なものでした。ヴィヴァルディは1712年頃には合奏長になり、のちに合唱長もかねるようになり、またこの学校のためにモテトやカンタータ、オラトリオ、コンチェルト、ミサ曲などの作品を多く作曲し、学校のオーケストラを使って自分の作品を発表しました。ピエタ音楽院は、18世紀ヴェネツィアの音楽界において活発な活動を続け、著名人たちもその演奏会につめかけ、非常な人気を集めたが、ヴィヴァルディの活躍によりいっそう名声を得るようになりました。

ヴィヴァルディがピエタ音楽院にかかわった1703年から1740年までの約40年間は、大まかに3つの時期に分けられます。第1期(約1703〜13年)は、彼がオペラに進出し始めるまでの期間で、音楽院の教師をしながら器楽作品を続々と出版していきました。《12トリオ・ソナタ》作品1(1705)、《12のソロ・ソナタ》作品2(1709)はいずれもヴェネツィアで出版されたが、出版された最初の協奏曲集《調和の霊感》作品3(1711)と《ストラヴァガンダ》作品4(1712〜13頃)はアムステルダムで出版されており、協奏曲作家としての名声はすでに全ヨーロッパに広がっていたと思われます。

第2期(約1713〜23)は、それまでの合奏長の地位にとどまりながら、オペラ作曲家として活躍を始めました。実は、ピエタ音楽院の最高責任者だったガスパーリがその職をはなれたため、ヴィヴァルディがその後任となっても不思議ではなかったが、その職にはつかず次々とオペラを生み出しました。1714〜18年のあいだにヴェネツィアだけでも10曲のオペラを上演し、オペラ作曲家としての活動は目ざましいものでした。このような活躍の中で、ピエタ音楽院との関係はかなりルーズなものになっていたと思われます。音楽院は、次第に有名になるヴィヴァルディを引き止めるため、オーケストラに月に2曲の協奏曲を作曲することと、旅行中はその楽譜を郵送するように求めています。

第3期(1712〜46)は、ヴィヴァルディ自身が1737年の手紙の中で「1723年から、私たちは一緒にヨーロッパのほとんどの都市に行きました。」と述べているように、何よりもたび重なる旅行をして活躍の場を広げた時期です。1723/24年にはローマにおもむき、少なくとも3曲のオペラを上演し、また1723〜25年にはウィーンに招待され、ここで3曲のオペラを上演しています。また、1730年と31年には彼のオペラがプラハで上演されたので、それに立ち会ったものと思われます。そして、1733年から35年を最後にヴェネツィアでのオペラ上演をやめたようだが、そのかわりに、ヴェローナ、アンコーナ、レッジョ、フェッラーラといったイタリアの小都市でオペラ活動を展開していきました。非常に盛んにオペラを生み出していたヴィヴァルディだが、さらに器楽作品の出版は彼の名声がますます高まっていたことを物語っています。《四季》として知られる4曲を含む協奏曲《和声とインヴェンションの試み》作品8は、おそらく1725年に出版されて、皇帝カール6世に献呈されました。そして、1728年秋にはこの皇帝から多額の賞金、勲章、爵位を授けられたようです。また、1729 〜30年に先駆的な《フルート協奏曲》作品10などを出版しています。しかし、出版がもたらした利益には必ずしも満足していなかったようで、ヴァイオリン協奏曲作品12以降、ヴィヴァルディの合意を得て出版された作品は見当たりません・その後の作品のいくつかは、偽作説も出ています。

ピエタ音楽院との関係は、1735年8月に合唱長に任ぜられたが、たび重なる旅行による不在のためか、1738年には再任されませんでした。しかし、1740年3月21日にザクセン選挙候フリードリヒ・クリスティアンがピエタを訪問した際には、3曲の協奏曲と交響曲1曲を作曲し指揮するように、音楽院から依頼されています。

これだけ輝かしい音楽家としての活動を続けたヴィヴァルディが、最後の地に選らんだのはウィーンでした。なぜウィーンへ旅立ったのか1739年秋に彼に会ったド・ブロスによると、ヴェネツィアの聴衆はそのころすでにヴィヴァルディからはなれていたと思われ、このこともヴェネツィアを後にした理由の1つと思われます。そして1741年7月、この地で亡くなりました。驚くことに、ヴィヴァルディは1741年7月28日、ウィーンの貧民墓地に埋葬され、こうなるにいたった経緯はヴィヴァルディ最大の謎とされる事実です。

壮大なもの、華麗なものをこよなく愛するヴェネツィアに生まれ、ヨーロッパの聴衆を魅了したヴィヴァルディの功績は、特に2つ上げられます。1つは、新しいヴァイオリン演奏技術を発展させたことです。彼はヴェネツィア派のヴァイオリンの名手として、18世紀前半のイタリアのヴァイオリン界に重要な役割を果たし、自らの演奏で多くの人に影響を与えました。もう1つは、後のバロック協奏曲のモデルとなった、いわゆる協奏曲形式」を確立したことです。ヴィヴァルディが確立した協奏曲形式とは、まず、曲全体が急−緩−急(速い−緩やか−速い)の3楽章構成はそのまま古典派以後の協奏曲にも受けつがれていきました。また、この協奏曲形式には「リトルネッロ形式」が用いられ、これは、同一素材によるトゥッティ(総奏)の主題と、それぞれ異なる独奏部の交替による形式で、これが1、3楽章(急速楽章)に見られます。これらの手法は、生き生きとしたしなやかなリズムや転調の効果的な使用によって発展していきました。それが、音色のダイナミックなヴァライエティに富んだ楽器編成と共に、ヴィヴァルディの音楽の魅力を作りあげていったのです。



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