Aeolianharp Piano Studio





Aeolianharp Piano Studio News Letter Vol. 7 (March '98)


素敵な出来事

ピアノのこともっと知りたい。

作曲家の気になるお話


素適な出来事


もう春!?と感じるようなポカポカ陽気の日が続きますが、私は一足早く、春の田園のようにさわやかなコンサートに行ってきました。 2月21日の浜松市楽器博物館レクチャーコンサートは、「さわやかな中世とルネサンス」というテーマで、その時代のイタリア、フランス、スペインの歌と楽器をひろうして下さいました。演奏家はダンスリー・ルネサンス合奏団という、日本では知る人ぞ知る実力派で、古楽器を使ってヨーロッパ中世およびルネサンス音楽を演奏し、1972年の結成以来、日本とフランスの各地で幅広い活動をされています。リーダーの岡本一郎氏は私の大学時代のギターの先生で、非常になつかしく素晴らしい演奏を聴かせていただきました。

ヨーロッパ音楽における中世(5または6世紀頃〜15世紀半ば)とルネサンス(15世紀半ば〜16世紀末)は、多彩な音楽が花開いた時代です。中世にはグレゴリオ聖歌に代表される単旋律のキリスト教典礼歌、吟遊詩人(詩人兼音楽家)による宮廷や世俗の歌、教会と世俗の両方で展開したポリフォニー(多声部音楽)などが演奏されました。ルネサンスにはさらに高度に発達したポリフォニーやシャンソン、マドリガルなどが、多彩な音楽世界を作り上げました。

楽器も様々なものが登場し、リュートをはじめサズ、ヴィオラ・ダ・ガンバなどの弦楽器、ゲムスホルン、リコーダーなどの管楽器そして種々の打楽器が、歌の伴奏をはじめ数々の舞曲で、自由に力強く、そして時には甘美に人々の心を歌います。

この日の演奏は、中世とルネサンスの音楽が生み出すさわやかで牧歌的な雰囲気にみちていて、はるかなる時代の人々が、音楽を自然に生活の一部とし、自由に楽しんでいた光景がステージに現れたようでした。舞台と客席の距離を感じさせない、音楽の原点をあらためて教えられる演奏に、現代とはまったく違うゆったりとした時間の流れを感じていたのは私だけではなかったと思います。


ピアノのこともっと知りたい。


18世紀中頃に始まったピアノの時代は、べートーヴェンの出現により大きく変わりました。それは、ベートーヴェンがピアノ曲を作曲する上で、芸術性を前面に出すことを一番としていて、芸術性の高い作品を作るという姿勢がこの時ほぼ確立したと言えましょう。それにともない、作品の芸術性を表現する上でのテクニックが必要となり、この時代にピアノ演奏法の主流も確立されました。

ベートーヴェンに始まり、ショパンやシューマン、リストといったピアノの大家や、ドビュッシーやラヴェル、スクリャービン、バルトーク、プロコフィエフ、さらにピアニストとしても活躍したラフマニノフなど、20世紀前半頃までの多彩な作曲家たちが、現代に受けつがれるレパートリーを作り上げていきました。

しかし、それまでの作曲家の多くがピアノ曲にたずさわる上で、ピアニストとして活動していたが、第2次世界大戦後のコンクール時代に入ると、そのころのピアニストたちは逆に作品を書くことはせず、もっぱら作品を聴かせるようになります。そのレパートリーは、多くの演奏会で耳にするベートーヴェンやショパン、リストなどの過ぎさりし時代の作曲家たちの、栄光に満ちた作品が主流になっています。…と言うことはつまり、ピアニストたちは、同時代の「現代音楽」と呼ばれる作品からは背を向ける傾向にあるといえましょう。それはまた、現代のピアニストたちが作品の創作に関与しないという点で、19世紀的なピアニストのあり方へのわかれの姿といえましょう。



作曲家の気になるお話


バッハ Johann Sebastian Bach (1685-1750)

バロック音楽の最後をかざり、音楽史上最大の音楽家のひとりとして、数多くの音楽家に多大な影響を与え続けるバッハ。ベートーヴェンが「和声の父」と評したバッハは、中世以来発展し続けた多声音楽の完成者と言われ、深い精神にみちた複雑な様式で多くの作品を残しました。私は、近々、コンサートでバッハの《マタイ受難曲》と《ブランデンブルク協奏曲》第3番を演奏することになりました。これらの大曲に触れることで、感情を内に秘めた様式の奥にあるバロック音楽のおもしろさ、神秘性を、あらためて感じる毎日です。

J.S.Bachは、1685年3月21日、ドイツのチューリンゲン州の都市アイゼナハに生まれました。バッハ一族は、200年間に50人以上の音楽家が出た家系で、一時はバッハといえば音楽家の代名詞であったようです。父親もアイゼナハの町楽師で、幼いバッハはこの父からヴァイオリンを習い、兄の弾くオルガンを聴いて、音楽の道を歩きはじめます。また聖ゲオルク教会付属学校の聖歌隊員として礼拝で歌いながら、音楽の基礎を身につけました。その後、10歳で両親を亡くし、オールドルフでオルガニストをしていた兄にひきとられました。

1700年3月、聖ミカエル教会付属のミカエル学校の少年聖歌隊員として、リューネブルクへおもむき、この頃からオルガン・コラール変奏曲やクラヴィーアの組曲などを作曲しています。1703年、ワイマールのヨハン・エルンスト公の宮廷につかえ、また、アルンシュタット新教会のオルガン奏者に18歳の若さでなっています。また1704年頃、かの有名なオルガン曲《トッカータとフーガ》ニ短調を作曲し、青年バッハの若々しい力と個性がいかんなく表現されています。1707年から1年間、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニストをつとめ、この町で教会カンタータの創作を開始し、《キリストは死の絆につき給え》や《神の時は最上の時なり》(共に1707/08年頃)を作曲しています。また1707年10月、遠縁にあたるマリア・バルバラと結婚しました。

1708年から17年にかけてワイマールの宮廷につかえ、はじめはオルガン奏者として活躍し、14年からは楽師長をつとめました。オルガン奏者として活躍する中で、《トッカータ、アダージョとフーガ》(1708―12)などの個性的なオルガン曲の名作が生まれました。この頃バッハの名声は次第に高まり、各地から招待されることが多くなりました。さらに、ケーテン宮廷楽長への移籍話が持ち上がり、ワイマール公にその地にとどまるように要請されたが、バッハ一家はケーテンへと旅立ち、音楽好きの領主のもとにつかえることになります。この地での楽長バッハの活動は、様々な祝賀会、来客への表敬、領主を中心とした室内楽などでした。1720年5月から2ヶ月間、領主の保養旅行に同行したが、旅行から帰ると妻が急死しており、4人の子供たちが残されていました。その翌年、傑作の一つとされる《ブランデンブルク協奏曲》をブランデンブルク辺境伯にささげ、同年12月にケーテンの宮廷ソプラノ歌手であったアンナ・マグダレーナ・ヴィルケンと再婚し、13人の子供に恵まれました。またこのケーテン時代には《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ》3曲や同じく《パルテ ィータ》3曲、《無伴奏チェロ組曲》6曲、《平均率クラヴィーア曲集第1巻》(1722)など数多くの独奏曲の傑作が生まれました。

1723年5月ライプツィヒにおもむき、聖トマス教会の音楽監督と合唱長(カントル)に就任し、亡くなるまでの27年間この職につき、作曲活動を行いました。ライプツィヒでの仕事は激務で、教会所属学校の教育が主だったが、さらに週1曲または2曲もの教会カンタータの上演が義務だったため、生涯に300曲もの教会カンタータを作曲したと推定されます。この激務が《ヨハネ受難曲》(1724)や《マタイ受難曲》(1727)、《クリスマス・オラトリオ》(1734)などの傑作を生むことになります。そんな中、バッハは上司にあたる市参議会、聖職会議、大学当局らと、その頑固な性格から度々しょうとつを起こし、1730年前後から教会音楽の作曲が激減します。バッハはその地位も不安定になり、打開の道を求めるために、大学生を中心とする音楽団体「コレギウム・ムジクム」の指導を始め、この楽団のために世俗カンタータやクラヴィーア協奏曲を作曲しました。また、大音楽都市であるドレスデンのザクセン侯に《ミサ曲ロ短調》(1724―49)の最初をかざる《キリエ》と《グロリア》などを献呈し、1736年11月、ポーランド王ザクセン選帝侯宮廷作曲家とい う称号を与えられ、以後バッハに対する露骨な妨害は少なくなりました。しかし1737年、バッハは芸術的にも打撃を受けます。音楽雑誌がバッハの音楽を「仰々しく混乱した書法が、作品から自然な感じをうばっている。」と批判し、中世以来の伝統に根差してきたバッハの音楽に対して、自然な感情の表現を優先する、若い世代の音楽が育ちはじめたことを告げるものでした。しかしバッハは、やはり伝統の中に自らを置き、うけつぎ育ててきた伝統を次の世代に残すことを考え、晩年は自分の芸術の集大成へと向かっていきました。そして1737年に出版された《クラヴィーア練習曲集》第3巻は壮大なコラール前奏曲集に大成され、《フーガの技法》も初期稿を1740年に完成し、その後はさらに出版をめざして努力が重ねられたと考えられます。また、プロイセン王フリードリヒ2世にささげられた《音楽の捧げもの》(1747)もカノンの技法の集大成がなされ、失明にいたる1748年から49年にかけては、かつてザクセン選帝侯に献呈した《キリエ》と《グロリア》を発展させて、《ミサ曲ロ短調》を完結させました。この壮大な作品は、まさにバッハの声楽作品の集大成に他なりませ ん。

晩年のバッハは白内障を病み、毎日が失われていく視力とのたたかいでした。さらに時代の趣味の変化にともない、バッハの音楽を取り巻く環境は恵まれたものではありませんでしたが、伝統的な多声音楽に当時おこなわれた新しい和声も十分に取り入れ、多声音楽の可能性も追求していました。また、優秀な音楽家である息子たちと数多くの弟子を育てたことで、彼の芸術を次の時代に伝える結果を生み出しました。そして目の病に苦しみながら、1750年7月28日、脳卒中の発作を起こし、ライプツィヒで65年の生涯を終えました。しかしその偉大な業績は、ヨーロッパ音楽最大の古典として、荘厳にかつ厳格に現代にも生き続けています。



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