Aeolianharp Piano Studio





Aeolianharp Piano Studio News Letter Vol. 6 (Feb. '98)


素敵な出来事

ピアノのこともっと知りたい。

作曲家の気になるお話


素適な出来事


来る3月24日(火)、第23回浜松新人演奏会が、アクトシティー浜松の中ホールで行われます。この演奏会では、静岡県西部出身の昨年大学、短大を卒業、および今春卒業見込みの新人演奏家が、ピアノ、声楽、管弦打楽器の三部に分かれて、今までの練習の成果をひろうします。これに先立って、2月1日(日)に、演奏会の出演者を決めるオーディションが開かれました。

私の妹はこの春、神奈川県にある洗足学園大学のピアノ科を卒業します。これまで数々のコンクールを受けてきましたが、今回初めて、地元で開催されるこの演奏会のオーディションにのぞみました。曲はシューマンの《幻想曲》の1楽章で、シューマンらしい繊細で情熱的な大曲です。彼女にとってこの曲は、試験やコンクールのために長い期間取り組んだ作品で、かなり演奏にも自信をつけてきていたようで、見事オーディションに受かり、演奏会出演への切符を手に入れました。

この新人演奏会は、幼いときから慣れ親しんできた音楽を通して、厳しいレッスンにたえてきた若者16人が、地元で演奏家としての第1歩をふみ出す記念すべき日になります。きっとさわやかな緊張の中で、若々しい演奏を聴かせてくれることでしょう。もしかしたら、これから世界に羽ばたくであろう才能に出会えるかもしれません。皆さんも身近な大演奏家を見つけに行きませんか?



♪ 第23回浜松新人演奏会 ♪
日時:平成10年3月24日(火)午後5時30分開場、午後6時 開演
場所:アクトシティー浜松 中ホール入場料:1,500円
主催:ヤマハミュージック浜松後援:静岡新聞社、SBS静岡放送



ピアノのこともっと知りたい。


19世紀前半に、ピアノのペダルはほぼ現在の性能までに改良されました。そして、そのころ活躍していたショパンは、ペダルを効果的に使用することで、彼の音楽の世界を高めていきました。

同じころ、ピアノ内部のハンマーにも画期的な発明がされました。ピアノは、鍵をたたくと、それに連動するように位置している内部のハンマーが上にはじかれて、弦をたたいて音が出るしくみになっていますが、パリのピアノ製造会社のエラール社が開発したダブルエスケープメントと呼ばれる打弦方法によって、ピアノの書き方は大きく変わりました。エラール社の方式は、ハンマーが弦をたたいて下まで落ちる前に、途中でいったん少し止まるようなしくみに変えたことで、そこからすぐにまた打鍵できるようになりました。つまり、短い時間に前より多くの音を連打することが可能になり、ある単位の中で、同じ音を反復させる数を増やすことができるようになったのです。作曲家たちも、その機能を前提として作品を書くようになりました。リストの有名な《ラ・カンパネラ》もこの機能を利用して、書き直されました。

リストは、1839年から47年までにヨーロッパ中を演奏してまわり、そのあと世界各地からピアニストたちを教え、彼自身が作り上げた近代的な奏法をおしみなく伝えました。またこの時期に、彼は若いときに書いた自分の作品を多く改訂しています。それは、若いときの作品にあきたらず書き直しただけでなく、ピアノの性能が彼の若い時代より格段に高くなったので、若いころのピアノでは表現しきれなかったものを、改良されたピアノに合わせて書き直したいという希望があったと思われます。そのため、《ラ・カンパネラ》の第一稿(1838年)と最終稿(1851年)を比較すると分かるように、改良されたハンマーをおおいに活用して、連打を多く使った作品に書き直されています。そして、この作品はいっそう高度な技術を必要とする作品として、その後の多くの音楽家に愛され続けています。

リストはピアニストとして出発して、その活動を通して作品を書いたが、奏法と作品の両方の面で、ピアノ音楽史の上に大きな足あとを残した一人であったと言えましょう。その後のピアノ音楽の流れは…。                        

次回号につづく。お楽しみに。


作曲家の気になるお話


ドヴォルザーク(1841-1904) Antonin Dvorak

「…ドヴォルザークの作品は、音楽家の心をとらえてはなさない。作品の中で1つの音型が紹介されたと思うと、すぐつぎのが顔を出し、聴くものは常に心地よい興奮をおぼえるのである。…」ドヴォルザークの交響曲第9番《新世界より》を聴くとき、チェコの作曲家ヤナーチェクのこの言葉を思い出します。この作品は全体を通して、ドヴォルザークの生まれ育ったチェコの民族的な要素がちりばめられていて、自然ゆたかな町の風景やそこに住む人々、そして永くオーストリアに支配されてきた民族の悲劇を織り込み、聴く者を感動につつみます。

ドヴォルザークは1941年9月8日、チェコの首都プラハから北へ約30キロの所にある、ネラホゼヴェス村の肉屋と宿屋をいとなむ家に生まれました。このあたりは音楽がさかんな土地で、家族も大の音楽好きでした。そのような環境の中でドヴォルザークも6歳からヴァイオリンを習い始め、父の店や教会で演奏するようになります。12歳のとき、父親は息子に家業をつがせるためにドイツ語を学ばせようと、小学校を中退させてズロニツェという町に行かせるが、そこでドイツ語教師でオルガン奏者でもあったリーマンという名教師に出会いました。リーマンはドイツ語だけでなくヴァイオリンとヴィオラ、それに鍵盤楽器の演奏法と和声学を教え、ドヴォルザークは音楽の道に進む決心をしました。1857年には家業をつがせたかった両親を説得し、ついにプラハに出てオルガン学校に入学し、2年間学びました。そこでは音楽理論や作曲も学び、優秀な成績で卒業しました。卒業後しばらくは生活のために、一流ホテルやレストランで演奏するバンドの一員として活動しました。 17世紀はじめからチェコはオーストリアの支配下にあったが、1859年にオーストリアがイタリアに戦争で負けて勢力が弱まったため、チェコ民族に対する抑圧的な政策をゆるめ、これを期にプラハを中心としたチェコ民族運動が高まりました。1860年代始めにはチェコ人民のための仮劇場が開かれ、ドヴォルザークも1862年から71年の10年間、ここでヴィオラ奏者をつとめました。1866年以降は交響詩《わが祖国》で有名なスメタナがここの指揮者となり、ドヴォルザークはチェコ国民音楽をおこそうとしていたスメタナの影響を大きく受けました。1865年からは、劇場の仕事の合間に、プラハの金属細工商チェルマーク家の2人の娘の出張音楽教師をつとめ、女優であった姉娘のヨゼフィーヌに恋するが、この恋は実りませんでした。この失恋の悲しみから18の歌曲集《糸杉》(1865年)を書き上げました。

ドヴォルザークの名が批評家の注目をひくようになったのは、民族的な主題をあつかった合唱曲《白山の後継者》(1872)で、この初演は大成功しました。1873年には劇場の仕事をやめ、教会のオルガン奏者と個人教授の仕事の収入だけになりました。そしてヨゼフィーヌの妹ですぐれたアルト歌手であったアンナ・チェルマークと結婚しました。1874年にはオペラ《がんこ者たち》を作曲し成功をおさめるが、生活は苦しく、「若く貧しい芸術家」への国家補助金に作品を提出して、この補助金を受けるようになります。その審査員だったドイツの作曲家ブラームスは、ドヴォルザークの管弦楽《スラヴ舞曲》第1集(1878)などを自分の出版社に出版させ、これらが高い評価を得て、ドヴォルザークの名が国際的になる糸口を開きました。こうした幸運の一方で、1875年から77年にかけて幼い一男二女を次々亡くし、深い悲しみにつつまれました。そのころ作られた《ピアノ三重奏曲》(1876)や、とりわけ合唱曲《スタバート・マーテル》(1877)は彼の傑作と言われ、その名が国内外に知れわたりました。そしてその後、二男二女に恵まれました。

1878年に、世話になったブラームスをウィーンに訪ねました。この時からブラームスとの交際が始まり、作曲の構成などについて学び、チェコの民族的な特色を反映させながら《弦楽四重奏曲第9番》(1877)や《交響曲第6番》(1880)などを発表していきました。《弦楽四重奏曲第9番》はブラームスにささげられました。

1882年に出版されたオペラ《いたずら百姓》(1877)がドレスデンで大成功をおさめ、ドヴォルザークの作品で最初に、チェコ以外で取り上げられたオペラになりました。それと前後して、ウィーンの高名な音楽評論家ハンスリックから、ウィーンに移住してドイツ・オペラを作曲するようにさそわれ、ブラームスもそれに賛成しました。オペラ作曲家として国際的に成功することが夢ではあったが、悩んだ末にドヴォルザークはチェコにとどまる決意をし、序曲《フス教徒》(1883)や《交響曲第7番》(1884―85)など、一連の愛国的な作品を書きました。

40〜50歳代にかけて作曲家として最盛期を迎えたドヴォルザークは、国際的にも大作曲家の1人としてみとめられるようになりました。そして外国から招かれる機会も増え、1884年から96年の間にイギリスを9回も訪れ、《交響曲第8番》(1889)やオラトリオ《レクイエム》(1890)などの名作をイギリスのたのみで作曲し、91年にはケンブリッジ大学から名誉博士の称号を贈られました。また1890年にはロシアを訪れ、チャイコフスキーと親交を深めました。同年、プラハのカレル大学から名誉博士号を受けるなど、次々と名誉が与えられ、またプラハ音楽院の作曲教授となり、ここでノヴァークやスークなどの弟子を世に送り、教育者としても大きな業績を残しました。

1892年秋、ニューヨーク・ナショナル音楽院の創立者ジャネット・サーバー女史の招きで渡米し、95年の4月まで音楽院の院長および作曲教授として業績を残しました。その間、黒人に対する人種差別や先住民インディアンへの迫害を目の当たりにし、黒人霊歌やインディアンの実態やその音楽に、強くひかれるようになります。それがアメリカの大自然や都市の活力への感動、母国チェコへのつのる郷愁と結びつき、最後の交響曲となった第9番《新世界より》(1893)や《チェロ協奏曲》(1894―95)などの人気作を生みました。また、アイオワ州のチェコ移民村ピルヴィルでしばらくの間過ごす中で《弦楽四重奏曲第12番》(1892)を作曲し、この作品は《アメリカ》という通称で親しまれています。

1895年に帰国し、再びプラハ音楽院の作曲教授となり、もっぱら交響曲とオペラを作曲しました。そして彼の作品の中でもっとも広く親しまれているオペラ《ルサルカ》(1900)を作曲し、1901年にはプラハ音楽院院長に就任しました。そして最後のオペラ《アミルダ》(1902―03)はあまり成功せず、その初演後間もない1904年5月1日、脳卒中で死亡しました。多作の天才と言われたドヴォルザークは、わき出る楽想のままに作曲し、その作品の多くにはチェコ的あるいはスラヴ的な特色が見られ、器楽曲に民族舞曲を取り入れたり、交響詩とオペラにはすべてスラヴの題材を用いています。また黒人やアメリカン・インディアンの音楽を取り入れたと言われるアメリカ時代の作品も、チェコ国民の歴史との共通性から生まれる親近感からそう思われがちだが、やはりチェコの民族性が非常によく表現されていると見るべきでしょう。それは交響曲第9番《新世界より》について、「この交響曲は祖国への愛情を込めて作ったチェコの音楽である。しかし、もし自分がアメリカを見なかったらこのような特色を持った曲にはならなかったであろう。」と言ったドヴォルザークの言葉からも分かります。健康に留 意した良き夫良き父で、芸術家にありがちな奇行やへんくつなところもほとんどなく、鉄道と鳩、そして何よりチェコを愛したドヴォルザーク。時代と環境によって課せられた、国民音楽を書くという重要な仕事をこなし、それをこえて世界に羽ばたいていった業績は、私たちにその人間的な強さをも伝えてくれます。



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