Aeolianharp Piano Studio
Aeolianharp Piano Studio News Letter Vol. 4
素敵な出来事
ピアノのこともっと知りたい。
作曲家の気になるお話
素適な出来事
11月7日、チェコ・フィルの演奏会に行ってきました。その日の曲目は、1曲目がスメタナの連作交響詩《わが祖国》より“モルダウ”、2曲目が<作曲家の気になるお話>で紹介したストラヴィンスキーの組曲《火の鳥》(1919年版)、3曲目がマーラーの交響曲第1番ニ長調《巨人》でした。指揮者の小林研一郎氏は大きな拍手の中、大柄なオーケストラメンバーの間を軽やかに現れ、人なつっこい笑顔で聴衆に一礼されました。そして、おかっぱ頭をとふってステージに向きなおり、軽く下を向いて集中を高めたあと、タクトを上げました。次の瞬間、あのもの悲しく美しいモルダウのメロディーが、ゆるやかに流れはじめました。
モルダウの作曲家のスメタナ(1824〜84年)は、チェコスロバキアの国民主義音楽の祖と言われていて、チェコ音楽の基礎を築き上げた人物として有名です。当時チェコは政治の圧力に苦しめられていて、苦しい社会情勢の中スメタナは、祖国を愛する気持ちを一連の響詩曲の中に盛り込みました。この国の過去の苦しみや、美しい自然、素朴な人情をそこに描き、祖国を賛美しています。その中でも、モルダウはとくに内容の優れた作品といわれ、チェコを流れるモルダウ河の光景が、そのロマンや伝説を織り込んで描かれています。
小林氏はこのモルダウを指揮するにあたり、大変悩まれたそうです。この演奏会の数日後の朝日新聞に、その内容が書かれていました。
この作品に取り組むとき、小林氏は曲に対する独自の解釈をメンバーに伝えようとします。しかしチェコへの愛国心に満ちた作品だけに、日本人である彼の解釈が通るかどうか悩まれました。そして、その解釈をメンバーに伝えましたが、答えはやはり「No」でした。小林氏もあきらめずに主張し続けましたがNo。しかし、小林氏はついに「Yes」をもらったのです。メンバーは、新しい風を受け止めてくれたのです。
自分の芸術性の高さを信じ続けた小林氏、伝統を守ろうとしながら小林氏の芸術を認めたチェコフィルのメンバー、やはり本物はすごい!!あの感動的な演奏が、そのあかしです。
ピアノのこともっと知りたい。
19世紀はじめに、ピアノ学習者たちが演奏しやすい、「サロン音楽」がさかんに作曲されました。これらの作品は、芸術性はともかく、弾きやすさを第一に作られたものでした。しかし、ベートーヴェンは、この風潮を一変しました。ベートーヴェンのピアノ曲は、芸術性を前面に出させることを第一に作られており、その作品を弾くためには、作品の芸術性を表現するためのテクニックを身につけなければなりません。つまり、非常に内容のこい練習をする必要があります。
彼の作品の中で、たとえばff(フォルティッシモ)は、全身で鍵盤をたたくような弾き方を必要としています。そうしなければ彼の意図した音楽は表現できないと考えられるからです。つまり、当時のピアニストたちのように、「ピアノの奏法が先にあって、あとから音楽がついてくる」という考え方とは、根本的に異なっています。ピアノ曲の書き方の点から見ると、ベートーヴェンの場合は、「音楽があって、奏法があとからくる」というかたちです。だから、ピアノ音楽に関しては、芸術性の高い作品を作るという姿勢が、この時代に成立したと言ってもいいでしょう。
そのような作品を弾くためには、相当なテクニックを必要とします。ベートーヴェンは自分の甥のカールのピアノ教育を、弟子のツェルニーにまかせていましたが、「まず指使いを十分に考え、正確に指をはこばせること。そして、音階の練習が演奏法の基礎になるから、十分に練習させること。」と、指示をあたえています。それは、当時のピアノに合う演奏法を甥に理解させたかったからだと考えられます。つまり、改良されつつあったピアノに合う演奏法が、新たなピアノ曲を作るうえで必要だと、ベートーヴェン自身が感じていたからです。
このような高いテクニックを必要とする弾き方は、ベートーヴェンの弟子たちが受けついでいき、この時期にピアノ演奏法の主流もかたちづくられていったと言えましょう。そして、ショパンは…。
次回号につづく。お楽しみに。
作曲家の気になるお話
ストラヴィンスキーIgorFeodorovichStravinsky
(1882〜1971)
去る11月7日、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴きに行きました。昨年の演奏会も行きましたので、今年で2回目になりますが、ますますチェコという国を訪れたいという思いが強まりました。そして今回は、チェコ・フィルの常任指揮者で、日本を代表する指揮者の一人である小林研一郎氏がタクトを振られたとあって、感動もひとしおでした。クラシック音楽を生んだヨーロッパの、この上ない芸術を共有できたひとときでした。とくに2曲目のストラヴィンスキーの組曲《火の鳥》(1919年版)の演奏は、ロシア民謡にもとづく美しい旋律と、大胆なリズムの躍動感に、この作品の奥深さをあらためて感じさせられるものでした。
ストラヴィンスキーは、1882年6月17日、ペテルブルグ郊外のオラニエンバウム(現ロモノソフ)の知的な上流家庭に生まれました。父親は宮廷歌劇場の第1バス歌手で、数々のオペラで主役を演じました。また、高い教養の持ち主で、20万冊をこえる蔵書を所有しており、この中からストラヴィンスキーは、のちの作品のヒントを得ました。母親も、音楽の才能に恵まれた女性でした。緑に囲まれた小さな町の、恵まれた家庭環境の中、ストラヴィンスキーは、9歳からピアノなどの音楽教育を受けます。すぐに楽譜を読むことをおぼえ、即興演奏や作曲をするようになりました。そして、チャイコフスキーやリムスキー=コルサコフ、グラズノフらの音楽に感銘を受けて作曲家になる決意をします。そして、法律を学びながらリムスキー=コルサコフのもとで、2年間作曲法や管弦楽法を学びました。このあと、《交響曲第1番》や管弦楽《花火》(共に1908年)を完成させています。
ストラヴィンスキーの音楽家人生は、3つの時代に分けられます。第一期は、原始主義的で民族的な音楽の時代です。この時期の作品は、リズムが大きな特徴になっていて一定のリズムをくり返したり、奇数リズムや異なる種類のリズムを同時に使うなどの手法を用いて、民族色を多分に表現しています。第一期の幕開けは、まず管弦楽《幻想的スケルツォ》(1907〜8)と《花火》の発表による、ロシアバレエ団の主宰者ディアギレフとの出会いで、これが作曲家としての成功の道となりました。ディアギフに求められ、1910年5月、ロシアバレエ団のための第1作《火の鳥》を完成させました。この作品は、ロシアに昔から伝わるおとぎ話を題材にしたバレエ音楽で、この作品によって独自の個性と大胆な手法をはっきりと示すようになりました。同6月のパリオペラ座での初演は大成功し、いちやく有名人になりました。この作品は、原曲のほかに1911年版、1919年版、1945年版という3種類の演奏会用組曲があります。1911年には次の作品の《ペトルーシュカ》を、同じくロシアバレエ団のために作曲し、これも成功をおさめ、作曲家としての地位を確立しました。そして、ロシア
バレエ団のための第3作《春の祭典》(1913)は、前2作よりも独創的で、ロシア人独特の力強さが前面に出ているが、上演されたパリでは賛否両論の嵐をまきおこし、ブーイングも起こるさわぎでしたが、まさに現代の革命的な若手作曲家として、脚光を浴びるようになります。そして、ヨーロッパ現代音楽にも大きな影響を与えました。しかし、この《春の祭典》を期に、それまでの作風は一変し、ロシア農民の結婚を主題としたバレーカンタータ《結婚》(1914〜17)で、3大バレエ音楽を代表作とする第一期は終わりを告げます。このころロシアを出国し、数年間スイスの各地を転々とします。
第二期は、新古典主義あるいは西洋音楽の原点を求めた時期と言われますが、それは1914年の《管弦楽四重奏のための3つの小品》で見られ、この作品では、小編成の楽器による客観的な表現を見せはじめます。1918年の劇音楽《兵士の物語》や《11楽器のためのラグタイム》で新古典主義への準備をととのえ、1920年のバレエ音楽《プルチネルラ》は、バロック音楽を引用した作品で、ドビュッシー亡きあとのヨーロッパ音楽の新しい方向を示す重要な役割を果たしました。そして、1927年のオペラオラトリオ《エディプス王》で、彼の新古典的な音楽は完成され、《詩篇交響曲》(1930)でピークに達し、こののち新古典主義はマンネリの時期におちいります。ストラヴィンスキーは、1920年から1939年までの約20年間をフランスで生活をしており、その間ピアニストや指揮者としてステージに上がり、多くの自作のレコーディングもおこなっておりますが、その生活は必ずしも幸福なものでなく、相次ぐ娘や妻、母親の死と向き合う、過酷な時期でした。そして、1939年の渡米を期に新たな創作力をわき起こし、《三楽章の交響曲》(1941)で沈黙をやぶるようによみが
えり、第二期の最後をしめくくる、彼唯一のグランドオペラ《道楽者のなりゆき》(1951)では、オペラの伝統を現代に生かした点で注目を集めました。また、プライベートの面では、1940年に2人目の妻と結婚しており、アメリカでの新しい人生のスタートを感じさせます。
第三期は、1952年から53年の《七重奏曲》から最晩年の作品に見られる、宗教的で内面的な表現で、作曲に取り組んでいます。以前は反対していた12音技法を積極的に取り入れ、バレエ音楽《アゴン》(1958)で、彼独自の12音技法を確立しました。そしてこれを工夫し、室内楽曲《墓碑銘》(1959)やカンタータ《アブラハムとイサク》(1963)、レクイエム《イントロイトス》(1965)など、宗教的な作品に取り組みました。そして《レクイエム・カンティクルス》(1965-66)はそうした晩年の宗教音楽の最高峰の一つです。またこれらの作品には、次々に世を去る友人たちへの追悼曲も多く見られ、これも晩年の大きな特徴といえます。
ストラヴィンスキーはその生涯を通して、社会的活動を好まず、音楽団体の世話役や会長につくことはありませんでした。その音楽に対する姿勢は職人気質と言っていいほどです。アメリカに移住したのも、ナチズムへの抵抗ではなく、戦火によって作曲活動をさまたげられないためでした。指揮活動は中年のころから積極的におこない、渡米後は自作の初演はほとんど指揮し、レコードの吹き込みも、後世に模範的な自作品の解釈を残す。ということから、多くおこなっています。また、つねに若い作曲家に耳を傾け、1959年の初来日の時に、当時ほとんど無名だった故武満徹氏の才能を見ぬき、その成功の引き金になりました。しかし、ストラヴィンスキーの評価は当時賛否が非常に分かれ、常に注目のまとでした。それは一作ごとに作風が変わることによりますが、20世紀の音楽の革新的な存在であり、常に新しい問題を提起し、次の方向をさしてきた予言者でもありました。さらに一作ごとに変わると見られていた作風も、近年の研究で、きわめて筋の通った格調の高いものであったと見直されました。
若い頃から肺結核にかかっていたストラヴィンスキーは、1971年4月6日、肺浮腫のためにニューヨークで亡くなりました。遺体はヴェネツィアのアドリア海に浮かぶサン・ミケーレ島に埋葬されました。その海辺の墓碑のそばには、彼を見い出したディアギレフが眠っています。