Aeolianharp Piano Studio
Aeolianharp Piano Studio News Letter Vol. 3
素敵な出来事
ピアノのこともっと知りたい。
作曲家の気になるお話
素適な出来事
今私は、12月6日に(土)におこなわれる、市民クリスマスコンサートの練習に毎日忙しいです。ヘンデルの「メサイア」の第1部を演奏するのですが、この作品は、独唱、合唱、オーケストラによるオラトリオ(聖書など、宗教的な内容の歌詞をもとに作られた、叙事的な大曲)です。ヘンデルはバロック時代(1600〜1750年頃)の作曲家なので、この時代にはピアノは普及しておらず、メサイアでは、オルガンかチェンバロが使われます。今回私は、電子オルガンの演奏を担当します。
当日は教会でのコンサートになりますが、練習も同じ教会でおこなっています。みなさんなごやかな雰囲気ですが、ひとたび演奏が始まると、荘厳さと心地よい緊張感で、教会の空気がはりつめたようになります。そして、そこだけが現代と違う場所のように感じてくるのです。
合唱は、浜松クリスチャンという、クリスチャンの方が中心のコーラスです。オーケストラは、という、浜松中心に活躍されている実力派オーケストラの方々です。そして、独唱は毛利優子さん、李英珠さんらが美声をひろうされます。
私にとって、はじめての合唱とオーケストラとの共演になりますが、みんなで一つの作品を作り上げるという喜びと緊張感がいいですね。きっと、感動的なコンサートになるでしょう。みなさんも、本物のクリスマスを味わいにいらして下さい。
第20回市民クリスマスコンサートのお知らせ
日時: 12月6日(土)17:00〜19:30
場所: 遠州栄光教会(住吉聖隷パーキング北隣)
主催: 市民クリスマスをつくる会 浜松クリスチャンコワイア
お問合せ先: 053―433―7334 西村さん迄
その他: 入場無料当日は、自由を行い、「朝鮮にたまごとバナナを贈る」運動に協力します。
ピアノのこともっと知りたい。
18世紀中頃(厳密には1780年代)に、ピアノの時代は始まりました。前にもお話したように、ピアノは1709年にクリストフォリオによって発明されましたが、楽器としての機能がととのい、十分な演奏ができるピアニストがあらわれて、ピアノの時代が始まったと言えましょう。
この時期のピアニストたちは、同時に作曲家でもあり、自分の作品を自分で演奏するという活動が、主流でした。モーツルトも、最初期にピアノ曲を作った作曲家で、演奏家です。
この時代にはまだ一般的な演奏法は生み出されておらず、ピアニストたちは、いわば自己流で自分の作品を演奏しました。弾き方は、現代のピアニストの多くのように、全身で弾くという感じでなく、体は動かさずに、指だけを上下する弾き方が主流だったようです。なぜなら、初期のピアノは弦の張力が弱く、鍵盤が今のように重くなかったためです。
しかし、フランス革命(1789〜99年)による社会変化にともない、ピアノが一般に大量に広まり、ピアニストたちも自己流の方法でなく、分かりやすく、むだなく勉強させるための教本を作り始めました。クレメンティーやツェルニーらが優れた教本を出し、今も非常に一般的です。それと同時に、ピアニストたちは、ピアノを学習する人たちが家庭での音楽会で弾くための、美しいメロディーだが、あまり難しくない作品を書き始めるようになりました。ここに、上品な軽音楽である「サロン音楽」の全盛期がおとずれました。が、しかし…。
次回号につづく。お楽しみに。
作曲家の気になるお話
シューマン
Robert Alexander Schumann (1810〜1856)
私の母は声楽家です。最近は歌う機会がありませんが、大学では声楽を勉強し、若いころや私が小学生のころには、コンサートを開いたこともありました。母は昔からシューマンの歌曲が一番好きで、よく練習したそうで、レコードもたくさん持っています。先日、母の古いレコードを聴いてみましたが、シューマンが妻クララにささげた《女の愛と生涯》は、優雅で切なく、心が洗われるような作品でした。シューマンはその生涯で歌曲をもっとも多く作曲しましたが、非常に繊細な彼の心が胸に伝わってきます。シューマンはその繊細さゆえに、若いころから心の病に苦しみ、最後は、精神病院で苦悩のうちに亡くなりました。
シューマンは、1810年6月8日にドイツのツヴィッカウという町に生まれました。父親は書店を営み、小説家でもあり、町では名の通った人物でした。母親は外科医の娘で、高い教養をもった人物でしたが、シューマンが子どものころから精神的に不安定でした。シューマンが幼いころから文学や音楽の世界に目覚め、また心の病を持ってしまったのには、このような家庭環境が大きく影響していると言えましょう。7歳の時に、オルガニストのヨハン・ゴットフリート・クンチェにピアノの手ほどきを受け、11、2歳から、ピアノ曲、合唱曲、管弦楽曲などを書きはじめています。1826年に父親が死亡し、母は彼に法律の勉強をさせようと大学に入れたが、法律より哲学に興味をもっていて、大学を転校します。しかし、20歳の時にニッコロ・パガニーニのヴァイオリン演奏を聴き、非常に感動し、音楽の道に進むことを決意しました。そのころ、当時著名なピアニストだったフリードリヒ・ヴィークの家に寄宿し、ピアノのレッスンを受けるが、激しい練習の結果、右手の指を痛め、ピアニストとしての夢をあきらめざるをえず、それからは作曲家としての道を歩き出しました。
ピアニストの夢を断念したシューマンでしたが、初期の作品がすべてピアノ曲であることから、ピアノへのひたむきな情熱が感じられます。その中でも、《アベック変奏曲》(1830年)、《ちょうちょう》(1832年)、《ダヴィッド同盟舞曲集》(1837年)、《謝肉祭》(1834〜35年)、《幻想小曲集》(1837年)、《子どもの情景》(1838年)、《クライスレリアーナ》(1838年)などは、もっともすぐれた作品で、シューマンの独創性がよく表現されています。また、24歳の時に音楽批評の仕事を始め、「音楽新報」という音楽雑誌を友人らと創刊し、1844年まで続けました。そして当時の保守的な音楽に対抗し、自由な音楽(ロマン派音楽)を支持しました。
シューマンは、ヴィークにピアノを習うようになってから、その娘クララと激しい恋愛に落ちたが、ヴィークに猛反対されます。しかし1840年にやっと結婚することができ、クララは16年あまりの結婚生活の間、シューマンを献身的に支えました。クララは結婚当時、すでに一流のピアニストで、精神的に不安定な時期の多かったシューマンを、各地で演奏活動をしながら支えました。シューマンも、結婚後は作曲の分野を広げ、ほとんどすべての音楽分野にたずさわりました。とくにクララと結婚した1840年はシューマンの「歌の年」と言われ、138曲も作曲しており、幼いころから親しんだ詩の世界と深く結びついた作品を、多く残しました。なかでも《女の愛と生涯》(詩=シャミッソー)、《詩人の恋》(詩=ハイネ)、《リーダークライス》(詩=ハイネ、アイヘンドルフの2作)、《ミルテの花》(詩=ハイネ、ゲーテ、バイロンなど)は、シューマンの哲学と文学とに深い基礎を持つ音楽性が、豊かに表現されています。とくに《女の愛と生涯》は、最愛の妻クララへの愛から生まれ、その勝利を表現した美しい記念となりました。この作品は全8曲からなり、初めての恋愛感情から
、愛する人との結婚、出産をへて、やがて夫との悲しい死別にいたるまでの、女性の心の歴史を表現しています。また、彼の歌曲は伴奏部を重視しており、非常に優雅なメロディーで、歌をひき立てます。
1843年に、メンデルスゾーンがライプチヒに建てた音楽学校の講師に招かれたが、シューマンには向かず、短い期間でこの地を去りました。また、1844年からドレスデンで個人教授と作曲に専念し、1850年にデュッセルドルフから指揮者として迎えられるが、若い頃から悩まされ続けてきた精神病が悪化し、1853年の秋にこの地を去りました。同じ年にヨハネス・ブラームスを見出し、世に出すために尽力し、親交を深めました。しかし、翌1854年2月6日、シューマンの病状は最悪の状態になり、クララの目をぬすんで部屋を抜け出し、ライン川に身を投げました。救出されたシューマンは、エンデニヒの精神病院に収容されたが、病状は回復せず、1856年7月29日、クララやブラームスのそばで、眠るように息をひき取りました。
幼いころから敏感な感情をもったシューマンは、たぐいまれな才能とクララという素晴らしい妻に恵まれました。しかし、たえず悩まされていた心の病により、46歳の若さで亡くなった彼の生涯を思うとき、その作品にふれたときと同じように胸がいっぱいになります。彼の知性とやさしさに満ちた歌曲、ロマン派の心理的で情緒的な表題音楽の基礎をきずいたピアノ曲、そのほかにも、交響曲4曲、《ピアノ協奏曲》、《チェロ協奏曲》、《ヴァイオリン協奏曲》、《弦楽四重奏曲》、《ピアノ四重奏曲》、《ピアノ五重奏曲》、オラトリオ《楽園とペリ》など、傑作といわれる作品を多く残しています。そして、ショパン、メンデルスゾーン、ブラームス、ベルリオーズなどを世に出し、彼らの新しい音楽を支持しました。とくにブラームスとは最後まで親交があつく、その作品にはシューマンの影響が大きくあらわれています。
シューマンの葬儀の日、1856年7月31日のクララの日記には、「彼の死とともに、私のすべての幸福は去った。新しい人生が私に始まろうとしている。」と書かれていました。シューマンの作品の良き理解者であった妻の手により、シューマンの作品の全集は世に送り出されました。