Aeolianharp Piano Studio





Aeolianharp Piano Studio News Letter Vol. 11 (July 1998)


素敵な出来事

ピアノのこともっと知りたい

作曲家の気になるお話


素適な出来事


6月9日(火)、「野村萬斎トークと名作狂言」を浜松市教育文化会館に見にいきました。萬斎さんは、NHK朝の連続テレビ小説などで人気が爆発し、その日の会場も8割ほどが女性客でした。狂言の起源や発展の歴史についてのトークからスタートしたその日の会でしたが、萬斎さんが装束を身にまとって舞台にあらわれると、あちこちから感激の声が上がり、その軽快で分かりやすいトークに聞き入っていました。トークの後には、萬斎さんのおじさまにあたる野村万之介さんによる「六地蔵」、そして萬斎さんによる「蝸牛(かぎゅう)」が演じられました。「六地蔵」はとてもにぎやかで、演技のおもしろさに加え、面や華やかな装束でも楽しませてくれました。「蝸牛」とは「かたつむり」のことで、萬斎さん扮する山伏が蝸牛になりすまして歌い踊り、童心にもどしてくれるような夢のある世界を見せてくれました。

狂言の起源は、奈良時代に中国から入ってきた「散楽」にあります。これは、ものまねや軽業、曲芸、奇術などの大衆芸能で、平安初期には民間に伝わり「猿楽」と呼ばれました。その後、猿楽は次第に発展し、室町時代に「能」、「狂言」の言葉が登場しました。やがて観阿弥、世阿弥親子が能を大成し、武家社会の支持を得ました。能が貴族的、情緒的なのに対し、狂言は庶民の日常を題材にして、風刺的に人間性を追求する芸術として発展しました。能と狂言は一番ずつ交互に上演されることが多く、この場合の狂言を本狂言と言い、また能の中の一役を狂言方が演じるのをアイ狂言と言います。このように、狂言は能と常に密接に交わりながら、同時に独自の自立した芸能、演劇として今日まで受けつがれて来ました。

600年の歳月をかけて、時代時代の現代劇として演じられ、生き続けてきた狂言。人間肯定の精神に徹し、その奇想天外なアイディアは生き生きとした笑いの世界に観客をみちびきます。狂言は、まさに時代をこえて広く愛され親しまれ続けている「人間劇」なのです。


ピアノのこともっと知りたい


ピアノの先祖と言われる楽器 Part. 4

パイプオルガン

ピアノの鍵盤は、パイプオルガンによって生み出されたもので、この点でパイプオルガンはピアノの先祖であると言えます。

パイプオルガンは、一種の笛であるオルガン管に空気を送りこんで発音させる鍵盤楽器で、単にオルガンと呼ばれることも多いです。オルガンの語源はギリシアのオルガノン(Organon)で、オルガンは最初<組み立てられた道具>という意味で用いられ、その後<楽器>に転じ、中世においては<教会にある楽器>になり、その後<パイプ>で発音する現在の<オルガン>を示すようになりました。小型で持ち運び可能なものはポルタティフ、数人の人手で移動可能なものはポジティフと呼ばれるが、標準的なオルガンには2、3段の手鍵盤と足鍵盤があり、壁面や床に固定されています。

一般にオルガンは様々な音質と音高のパイプを多数そなえており、ストップ(発音可能にする装置)操作によってパイプを選択し、その組み合わせ方によって音量、音色を変化させることができます。また複数の鍵盤をそなえているものでは、それぞれの鍵盤が独立したパイプ群を持ち、音量、音色の対比を可能にしています。

オルガンの歴史は古く、古代ギリシアではヒュドラリウスと言い、意味は<水オルガン>で、パイプに空気を送るために水圧を用いていました。キリスト教時代のヨーロッパでは、オルガンは聖歌の伴奏用として教会に導入されたが、以後、教会に不可欠な楽器として発展してきました。そして、現代ではコンサート・ホールにも設置されるようになり、より身近な楽器になりつつあります。


作曲家の気になるお話


シューベルトFranz Peter Schubert (1797〜1828)

「歌曲(リート)の王」と言われているフランツ・ペーター・シューベルトは、わずか31年という短い生涯の間に膨大な数の歌曲を残しています。10曲の交響曲、15曲の弦楽四重奏曲、7曲のミサ曲、22曲のピアノソナタ、数曲のオペラ、そして700曲におよぶ歌曲を作曲しました。古典派音楽からロマン派音楽にうつり変わる時代の中、彼が残した音楽はほかに類がないほど美しく、時に短い生涯を物語るようで、深い悲しみを感じずにいられません。

シューベルトは1797年1月31日、オーストリアのウィーン郊外の町リヒテンタールで14人兄弟の12番目として生まれました。兄弟のうち3人の兄とシューベルト、そして妹の5人しか育ちませんでした。父親は音楽愛好家の小学校長で、この父からヴァイオリンを、兄からピアノを学びました。10歳頃から教会のオルガニストのミヒャエル・ホルツァーにヴァイオリン、ピアノ、歌唱法、そして和声楽などの音楽全般の基礎教育を受けました。12歳になる直前に、王室礼拝堂合唱団のボーイソプラノ歌手に選ばれ、国立神学校で一般教育を受け始めます。入学試験の試験官には、かつてモーツァルトを毒殺したとささやかれたアントニオ・サリエリ、そして副学長のヨーゼフ・アイブラーがいて、やがて彼らからも音楽教育を受けました。学生オーケストラではシューベルトはヴァイオリン演奏がすばらしく、コンサートマスターをつとめ、また学業全般にわたって優秀でした。やがてオーケストラの指揮までまかされるようになります。 1812年7月、シューベルトは変声期をむかえ合唱団をやめたが、オーケストラ団員として、あと1年籍をおくことを許されました。作曲を始めたこの頃、生涯の親友となる8歳年上のヨーゼフ・シュパウンと出会い、シュパウンは最初にシューベルトの才能をみとめ、貧しいシューベルトに多くの援助をしました。この頃の作品はすでに少年の習作をこえたものとして、完成していました。その後学校を卒業して、父親の学校で音楽の教師を始めます。

1815年には歌曲《魔王》や《野ばら》などの名作をふくめ145曲の歌曲を書いているが、父の学校での仕事にあきた彼は、ライバッハの教員養成学校の音楽教員の職を得ようとしたが失敗しています。1816年の作品は交響曲第4番《悲劇的》ハ短調や歌曲《子守歌》、《さすらい人》、ゲーテの詩から《たて琴ひきの歌》などがあり、またこの頃当時のすぐれた声楽家のフォーグルと知り合い、シューベルトの歌曲はしだいに世に出るようになりました。さらに歌曲作曲の技は向上し、《死と乙女》や《音楽に》(共に1817年)などの名作が生まれ、イ短調ほか4曲のピアノソナタも完成し、これらをふくめた彼の歌曲やピアの曲には、自由と個性を追求したロマン派音楽の性格が強く見られます。

1818年7月、ハンガリーのエステルハージ伯家の音楽の家庭教師にやとわれ、その2人の娘にピアノを教えるなどして滞在し、ここで彼はいくつかの歌曲やピアノ連弾曲などを作曲しています。1919年には、かの有名なピアノ五重奏曲《ます》を作曲し、またオペラ作曲にもかなり熱が入っていました。1920年にはオペレッタ《ふた子》が完成し、フォーグルの主演で6月に上演されたが彼のオペラはどれもあまり評価されなかったようです。また音楽劇のための作品《魔法のたて琴》や、その他いくつかの歌曲もこの年には残されています。しかしこの頃、シューベルトの創作力はかなり落ち、それは1818年頃に体調をくずしていたことが原因と考えられます。

1922年、歌曲《さすらい人》の旋律を用いたピアノ曲《さすらい人幻想曲》が作曲され、この大曲も多くの人に愛されています。そしてこの年、もう一つ大変有名な作品、交響曲第8番《未完成》ロ短調が作曲されました。この作品は、その名のとおり、未完成の作品で、もともとシューベルトは大作を得意としないため完成されなかったようです。また、1923年はシューベルトにとって収穫の多い年で、音楽劇《ロザムンテ》などが完成し、歌曲では《水の上で歌う》や《君はわが恋》、《美しい水車小屋の娘》連作20曲があります。またピアノ曲では《34の感傷的ワルツ》、《楽興の時》、《12のドイツ舞曲》があります。またこの年から、シューベルトをかこんで彼の新作を聴く会があちこちの家庭で開かれ、これを「シューベルティアーデ」と呼びました。しかしこの頃体調をこわして入院し、その後うつ病をくり返し起こしています。


1824年、ふたたびエステルハージ家の家庭教師としてハンガリーで夏を過ごし、いくつかのピアノ曲を作曲しています。そして1825年の二つのピアノソナタ《イ短調》Op.42と《ニ長調》Op.53はともに好評を博しました。しかし作曲活動はエネルギッシュだったが、いまだに定職がないことが彼自身や友人の心配の種でした。作品は少しずつ出版されたが、収入は決して豊かではありませんでした。そんな中、1826年にオーストリアの宮廷礼拝堂の副学長のポストがあいたので、シューベルトは熱心にその職を得ようとしたが、結局かないませんでした。この年、ピアノの名作《ト長調のソナタ》が作られ、この作品は《ファンタジー》の名で親しまれています。また弦楽四重奏曲の名作《死と乙女》や多くの歌曲も作曲されました。

1827年には連作歌曲《冬の旅》が完成し、すぐに出版されました。この年の3月、シューベルトが神のように尊敬していたベートーヴェンの健康状態が悪化し、3月19日にシューベルトは友人に連れられベートーヴェンを見舞いました。しかし、シューベルトはこの巨匠に一言も声をかけられず、その場を去ったと伝えられています。3月26日にベートーヴェンが亡くなり、29日に盛大な葬儀がおこなわれ、シューベルトも棺のそばでたいまつを持って参列しました。

1828年、シューベルト最後の年は、盛大なシューベルティアーデが催されたり、かねてから熱望していたシューベルト作品だけの演奏会が開催され、高収入も得ました。創作欲もますます盛んで、《弦楽五重奏曲ハ短調》や歌曲《白鳥の歌》を完成しました。しかし、9月にめまいや動悸が起こるようになり、アイゼンシュタットの旅から帰った11月に兄弟とレストランで食事中に気分が悪くなりました。その後まったく食欲がなくなり、発熱して衰弱がひどくなり、やがて治療のかいなく、意識障害のなか11月19日に亡くなりました。死因は神経熱と記されたが、従来の伝記では腸チフスやその他の病気だったとも伝えられています。

シューベルトは、オーストリア人の多くのように小柄で、髪はちぢれ毛でひどい近視でした。ワインを非常に愛し、飲みすぎから太ったと記されています。人見知りがひどく、とくに女性には小心で、ただ一度の恋の相手テレーゼ・グローブとも結婚できず、生涯独身でした。しかし、彼の楽才の豊かさはモーツァルトとよく似ており、楽想がうかぶと何にでも書き記しました。とくに歌曲(リート)作曲家として、芸術的にも音楽の歴史においても重要な位置を占めています。彼の歌曲は一般にピアノ・リートと呼ばれ、原文の表現する世界や詩の背景などを、ピアノ声部も表現するという機能を持ち、歌とピアノの音の構築が精神性や心理状態の変移を表現しています。歌曲において、シューベルトが後世におよぼした影響ははかり知れないほど大きく、シューマン、ブラームス、ヴォルフ、R.シュトラウスの歌曲はシューベルトの偉業なしには考えられません。

シューベルトは生前「自分が死んだらベートーヴェンのとなりに埋葬してほしい。」と希望しており、その言葉通りにすぐとなりに埋葬され、また1888年にウィーン中央墓地に改葬される際にも、シューベルトはベートーヴェンのとなりに葬られ、永遠の眠りにつきました。



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