Aeolianharp Piano Studio




Aeolianharp Piano Studio News Letter Vol. 18 ( 2000)


素敵な出来事

ピアノのこともっと知りたい

作曲家の気になるお話


素適な出来事


  私は少し前に、東京のブリジストン美術館に、安井曾太郎(1888〜1955)の「文芸春秋」表紙絵の展覧会に行ってきました。彼は晩年の1947年から1955年にかけて同誌の表紙を手がけ、今回は表紙原画86点が展示されました。独特の色彩感覚を味わえる〈花〉や〈ペルシャの壷〉、それに孫の美乃さんを描いた作品など、日常のふとした場面をとらえた作品が、その時代の世相の一端や四季折々の表情を感じさせてくれました。
 1888年京都に生まれた安井は、1903年に画家をこころざし京都市立商等学校を中退し、翌年に聖護院洋画研究所に入門しました。この研究所では、同じくのちに日本を代表する画家となる梅原龍三郎が同級生で、その後二人はライバルとして活躍します。1907年にフランスに渡り、入学したアカデミー・ジュリアンでは毎月のデッサンのコンクールで賞を独占していました。1910年に同校をやめて自由製作を続け、ミレー、ピサロ、とくにセザンヌに傾倒していました。
 1914年に帰国し、翌年には第2回二科展にヨーロッパ滞在中の作品41点を展示し、 セザンヌ風の表現が大評判をよびました。しかしその後、画風確立のため試行錯誤の時期が続き、製作不調におちいります。やがて、1929年の第16回二期会に〈座像〉を発表したころから独自の様式化がはかられ、成熟期を迎えます。1935年には有島生馬、石井柏亭らと一水会を創立し、1944年には東京芸術学校(現東京芸術大学)の教授に、また帝室技芸員に任ぜられました。
   昭和のはじめから風景画、肖像画、静物画の各ジャンルに個性あふれる近代的な様式をひらき、戦中・戦後の暗い世の中に、梅原とともに「安井・梅原時代」と呼び慣わされました。1955年に67歳で亡くなり、絶筆は〈秋の城山〉で、山や木の配置にセザンヌ風がしのばれる風景画でした。


ピアノのこともっと知りたい


ピアノの先祖と言われる楽器 Part.10

スピネット

   スピネットの名前の由来は〈とげ・くぎ〉を意味するラテン語の〈Spina〉からきたと言われ、トゲ状のジャックで弦がはじかれて音が出るのでこの名がつけられたそうです。現在、小型のアップライト・ピアノのことをスピネットと呼んでいるが、もともとは小型のチェンバロの名称でした。
 スピネットの形態的な特徴は、そのケースの形が多角形(不等辺5角形および6角形のものが多かった)あるいは翼のような形であったことと、弦がななめに張られていたことです。脚を持たず、テーブルにおいて演奏するものもあります。音域は3〜5オクターブで、大部分はシングルストリングだったため、チェンバロとことなって、華麗な音色はのぞめませんでした。  16世紀から18世紀末までの300年のあいだに、イタリア、オランダおよびフランスなどで、ケースに寓話的な絵が描かれた数多くの美しい楽器が作り出されました。 ヴァージナルは、15世妃から17世紀までイギリスで流行したチェンバロの一種です。チェンバロより小さい長方形のケースを持ち、その特徴は弦が横に張られていることです。音域は2〜4オクターブ程度で、弦もジャック(弦に音振動を与える装置)も共にシングルで、演奏効果はそれほど大きくありません。


作曲家の気になるお話


 チャイコフスキー Peter Ilyich Tchaikovsky (1840〜1893)

   先日「いつかチャイコフスキーの《ピアノ協奏曲第一番》を演奏したい。」と、私の教室で習い始められた方がいます。官能的であり内省的と言われるチャイコフスキーの作品の中で、私がいつか演奏してみたいのはピアノ三重奏曲《偉大な芸術家の思い出》です。  ロシア最大の作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは、1840年5月7日、 ウラル地方のヴォトキンスクの中流家庭で生まれました。父は鉱山監督官、母はピアノを趣味とする女性で、チャイコフスキーは7歳の時から女家庭教師にピアノを習い始めます。48年に父親の仕事の都合で一家はモスクワに移ったが、すぐにまたペテルブルグに移り、ここでチャイコフスキーは寄宿学校に入学し、はじめて正規のピアノのレッスンを受けます。50年には父の希望でペテルブルグの法律学校に入学し、ウラル地方にもどっていた家族とはなれて生活することになります。法律学校ではコーラスに加わり55年からはピアノと理論を本格的に学びはじめ、このころの作品でピアノ曲《ワルツ》(1854年)が残っています。この年母親がコレラで亡くなり、大きな悲しみに包まれました。
 1859年、法律学校を卒業したチャイコフスキーは法務省の一等書記官に就職し、63年に法務省をやめるまで職務に追われていたが、音楽への情熱は断ち切れず、味気ない日々を送りました。そこへ一つの転機が訪れました。当時大ピアニストとして有名だったアントン・ルビンシュタインと弟のニコライが60年に、西ヨーロッパの音楽の伝統をロシアに根差させるのが目的でロシア音楽協会の音楽教室を開設し、61年にチャイコフスキーはこの教室に入学します。翌年、この教室がペテルブルグ音楽院に昇格し、彼も学院の学生となり、63年に法務省をやめました。彼はルビンシュタインからヨーロッパ音楽の伝統的手法を学び、音楽的才能をはっきりあらわすようになり、作曲家として生きる自信を持ちます。このころ最初のまとまった作品として管弦楽作品の序曲《嵐》を作曲しました。
 1856年、チャイコフスキーは学院を卒業し、翌年、ニコライが64年に開設したモスクワの音楽院で教師になり、和声を教えました。モスクワに来てからの作品は交響曲第一番《冬の日の幻想》(1866)で、ロシア民謡を土台にした国民色強いこの作品の初演がきっかけで、〈ロシア五人組〉のバラキレフのグループと親しくなり、序曲《ロミオとジュリエット》(1870)をバラキレフにささげました。これに続く《弦楽四重奏曲第一番》(1871)、《交響曲第二番》(1872))はいずれも民謡を土台にした国民主義的な作品で、チャイコフスキーと国民楽派の関係は非常に密だったが、その後の彼の作曲法は次第に西洋派としての立場を確立し、モスクワ音楽院は西欧派の中心と見られるようになります。またこのころ、ペテルブルグでデジーレ・アルトーというベルギーの女性歌手と恋愛し求婚までしました。しかしチャイコフスキーは内気で異常なまでにデリケートだったため、周囲の事情に妨げられているうちに、アルトーはスペイン人の男性と結婚してしまいました。
 1874年から翌年にかけて彼の音楽に一時期をきずいた《ピアノ協奏曲第一番》を作曲し、この曲のもつ雄大な構想とロシア音楽としての充実感は、チャイコフスキーの音楽的個性をはっきり示すものでした。ドイツの大指揮者ハンス・フォン・ビューローが完成の年にボストンで初演して以来、各地で演奏され、チャイコフスキーの名を世界的にした傑作です。しかし同じ年に作曲した《交響曲第六番》などが不評であったためうつ状態になります。その後西ヨーロッパに旅に出て、76年にパリでビゼーの《カルメン》を見て強い感銘を受け、この年のうちに帰国します。そしてボリジョイ劇場からからの依頼であったバレー音楽《白鳥の湖》や《弦楽四重奏曲第三番》、《スラブ行進曲》を完成しました。このころ、チャイコフスキーの作曲生活に重要な意義を持つ、フォン・メック夫人との不思議な関係が始まります。夫人はかねてから彼の音楽に高い敬意を表し、6000ルーブルの年金を申し出て、夫人の援助は以後13年続きました。しかし二人は文通はしたが、一度偶然すれ違っただけで一生涯面会することはありませんでした。夫人に献呈された最初の作品が《交響曲第四番》(1878)で、この作品でロシア・シンフォニズムに新しい道が開かれました。
 このころ彼の生涯最大の不幸とも言うべき結婚問題が持ち上がりました。音楽院のかつての弟子、アントニーナ・ミリュコヴァという28歳の女性から熱烈な求婚を受け、あまり乗り気ではありませんでした。しかし、世間では彼が同性愛だという風評があったため、彼女に押し切られるままに77年の7月に結婚しました。しかし彼女は夫の仕事に何の理解もなく、精神的に不安定で音楽一筋のチャイコフスキーとの生活は3ヶ月で終わりました。彼は強度のノイローゼにかかり、ある晩自殺をこころみたが助けられ、間もなく転地療養のためヨーロッパに旅立ちます。そして旅先で写実主義的技法のオペラ《エフゲニー・オネギン》(1877〜78)の作曲を始めました。
 1878年、帰国したチャイコフスキーは新たな創作意欲を燃やし、《ヴァイオリン協奏曲》の作曲に専念するため音楽院の教授を辞任し、その後の冬はとくにフィレンツェで過ごしました。この旅行中にグランド・オペラ《オルレアンの少女》を、80年イタリア滞在中に《イタリア奇想曲》、《ピアノ協奏曲第二番》、モーツァルトに深く影響された作品《弦楽セレナード》、82年には《祝典序曲》を作曲しました。また81年の旅行中に敬愛するニコライ・ルビンシュタインが亡くなり、この年から翌年にかけて《偉大な芸術家の思い出》と題するピアノ三重奏曲を作曲し、師の追悼にささげました。
   チャイコフスキーの作曲家としての地位はこのころすべて定まり、ロシアにおける西欧派を代表していました。これに対立する立場のバラキレフのグループはすでに消滅していたが、82年にバラキレフとの交流が復活し、バラキレフのすすめでバイロンによる標題音楽《マンフレッド交響曲》(1885)を作曲しました。87年にはオペラ《かじ屋のヴァクラ》を《かわいいくつ》に改作し、この初演で指揮したのがきっかけでそれ以降たびたび指揮台に立ちます。しかし非常に神経質な彼は、その度に極度の緊張状態になりました。
 1888年には彼の傑作の一つである《交響曲第五番》、翌年にはバレー音楽《眠れる森の美女》が完成しました。さらに90年にはフィレンツェ滞在中にイタリア式のオペラ《スペードの女王》、帰国後に弦楽六重奏曲《フィレンツェの思い出》を書き上げました。またこの年、フォン・メック夫人が精神的理由から年金を打ち切ることを告げ、チャイコフスキーは打撃を受けます。しかし生活の面では、2年前からロシア政府による年金3000ルーブルが支払われていたので問題はありませんでした。また、翌91年には最愛の妹が亡くなり、再び深い悲しみに包まれます。その後オペラ《ヨランタ》(1891)、バレー音楽《くるみ割り人形》(1892)の作曲にとりかかり、その途中でアメリカへ演奏旅行に出かけます。ニューヨークのカーネギー・ホールでの演奏会は歴史的な成功をおさめ、その他各地で絶賛を受けました。92年には変ホ長調新しい交響曲の作曲を始めたが、草稿のまま、のちにセミヨン・バラキリエフによりオーケストレーションされ、《交響曲第七番》として1960年に出版されました。
 1893年には《交響曲第六番》の作曲に取り組み、8月にはロンドン・フィルを指揮し、ケンブリッジ大学から音楽博士の称号を受けました。さらに10月28日にはペテルブルグで《交響曲第六番》の初演を指揮しました。この作品は彼の芸術の総決算というべきもので、非常に悲観的な曲想です。チャイコフスキーは第六番に対して「この作品は永遠に謎であり続けるだろう。」という言葉を残し、初演の一週間後の11月6日に53歳で突然亡くなりました。死因は生水を飲んだためコレラにかかったとされているが、毒物による自殺説も根強く語られています。第六番は、生前に彼が考えていた《悲愴》という名が付けられ、消え入るような第四楽章の終わりは、自身の死を暗示したようです。
 チャイコフスキーの功績は特に交響曲とバレー音楽にあげられます。交響曲はロシア国民主義の土壌の上に独特のドラマティックな内容が表現され、とくに第四番以降は一貫した情緒の流れと技量の素晴らしさが際立ち、構成は古典派とロマン派の融合が見事です。バレー音楽はフランス音楽が模範とされ、洗練された情緒性が聴くものを魅了します。西欧派と言われたが、彼の音楽の根底に流れているのは、ロシアの風土でしか考えられないセンチメンタリズムであり、暗い色調の中にも輝きを秘めるオーケストレーションは、不幸な人間であったとされるチャイコフスキーの人物像とその人生をうつしだしています。
 



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