Aeolianharp Piano Studio
Aeolianharp Piano Studio News Letter Vol. 1
素敵な出来事
ピアノのこともっと知りたい。
作曲家の気になるお話
素適な出来事
「ドビュッシーといえばピアノ曲。」だった私に、ステキな出来事がありました。
JTの「ピース スーパーライト」のCMにピアニスト役で出演したのです。この時撮影に起用された曲が、ドビュッシーの歌曲《美しい夕暮れ》だったのです。まさに、夕暮れの、赤く、美しく、もの悲しい雰囲気そのままの曲です。
CMの主演は、日本のサックス演奏家の中で、実力、人気ともNo.1の須川展也さんが出演され歌曲の歌のパートを、美しく優雅に演奏されました。私は、須川さんの伴奏をさせていただきました。実は、須川さんは私と同じ浜松出身で、私も数年前からファンになり、何度もコンサートに行っています。
出演が決まったときの喜び、撮影の時の感動は、一生忘れられないと思います。CMの出演、須川さんとの共演、そして、美しいドビュッシーの歌曲との出会い、トリプルで感動的だった6月16日(月)の撮影でした。
(放送は、平成9年8月15日から来年の7月31日までの予定です。お楽しみに。)
ピアノのこともっと知りたい。
私たちにとってもっとも身近な楽器、ピアノ(piano)の本名はピアノフォルテ(pianoforte)、厳密には、クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテと言います。
1709年にイタリア人のチェンバロ製作家、バルトロメオ・クリストフォリが発明し、音の強(フォルテ)と弱(ピアノ)を自在に出せるチェンバロという意味でこの名前が付けられました。チェンバロは、16〜18世紀のもっとも栄えた、グランド・ピアノに似た型の鍵盤楽器で楽器内部の小さな爪で弦をはじいて、音を出すしくみなのに対して、ピアノはハンマーで弦をたたく仕組みになっています。
ピアノには、グランド・ピアノ(平型)、アップライト・ピアノ(たて型)の2つの型があり、それぞれ小型から大型までいろいろな大きさのものがあります。フル・コンサート・グランドと呼ばれるものがもっとも大きく、長さは3mちかくあります。また、とくに背の低い小型のアップライト・ピアノはスピネット・ピアノとも呼ばれています。グランドとアップライトのほかに、スクエア型(長方形テーブル型)のピアノがありましたが、19世紀中頃から次第に姿を消し、現在は作られていません。
作曲家の気になるお話
ドビュッシー
Claude Achille Debussy(1862〜1918)
平成9年5月18日のSEFA花展のピアノコンサートで、ドビュッシーの「アラベスクT」と「雨の庭」を演奏しました。聴きに来た知人が「今までロマン派の曲を聴くことが多かったけれどドビュッシーの曲の、渇いた雰囲気と、気負わず聞ける感じもいいね。」という感想を伝えてくれました。ドビュッシーの作品を筆頭に音響感覚的な「印象主義」の特徴は、まさにそういうところだと思います。
ドビュッシーは、1862年、フランスのサン・ジェルマン=アン=レーで陶器商を営む家に生まれました。1864年頃、両親は収入の少ない家をたたみ、ドビュッシー一家はパリに移り住むが、不安定な生活は続きました。このような環境の中で育ったドビュッシーは明るく活動的な方ではなく、かなり風変わりな少年だったようです。
ドビュッシーが初めてピアノの手ほどきを受けたのは、1871年、イタリア人のチェルッティーという人物からでした。その後ショパンに習ったことがあるというモテ・ド・フルールヴィル婦人に習い、努力のかいあって、10歳でパリの音楽院に入学を許可されました。学校では優等生タイプではなかったが、個性をいかんなく発揮し、数々の賞を得ました。また、学費を稼ぐため貴族の家のピアノ奏者をする中で、何曲かの歌曲を作曲し、文学や教養の面で多くの良い影響を受けました。
1884年、カンタータ《道楽むすこ》でローマ大賞を授賞し、この頃から後期ロマン主義音楽から次第にはなれ、詩の世界や東洋音楽から多大な影響を受け、型にはまらない(長調でも短調でもない)自由な、新感覚の音楽をつくっていきました。これが、ドビュッシーが見つけ、完成させた印象主義(印象派)の音楽です。初期の代表作は、ピアノ曲《2つのアラベスク》、《ベルガマスク組曲》、歌曲《忘れられた歌》などがあります。また、新鋭作曲家としての地位を決定的にしたのは、カンタータ《選ばれたおとめ》、《弦楽四重奏曲》、管弦楽曲《牧神の午後への前奏曲》などの作品です。
プライベートの面では、1893年に親元から離れてから何人かの女性と恋愛をし、一度結婚をしました。しかしその間に裕福な銀行家バルダックの夫人、エマと愛し合うようになりその複雑な人間関係がセンセーショナルにあつかわれ、その当時、モデル小説まで出されたそうです。その後エマと結婚し、同時に作曲家として苦しい時期を迎えたがエマとの間に愛娘クロード=エマ(愛称シュシュ)が生まれ、より前向きに作曲活動に打ち込み、シュシュのために1908年、ピアノ曲集《子どもの領分》を捧げました。エマとシュシュの家庭は、平和と喜びに満ちたものでした。
ドビュッシーは、1918年にガンで亡くなるまでに、オペラ《ペレアスとメリザンド》や、ピアノ曲《版画》、《映像》など、ほかにもたくさんの管弦楽曲、ピアノ曲、歌曲などを残しました。型にはまりがちだった19世紀ロマン派から抜け出し、長、短調よりもっと自由な旋法を見つけ出したドビュッシーは、音階法にとらわれない、音の響きを前面に出した作曲法で、音楽を解放したといえるでしょう。ドビュッシーの個性的で自由な感性を抜きにして、20世紀の音楽の歴史は語れません。そして、同じ20世紀に音楽に携わるものとして、改めて敬意を表します。